BORDEAUX



 日が暮れてしばらくすると、マスターが起きて活動を始めたのだろう。リビングに人の気配がする。

   自室から注意深くリビングの気配を窺ってしまうのは、もう3日ほどマスターと口をきいていないから。
 他人と深くかかわることを避けてきた自分には喧嘩をしてしまった相手との修復の方法が思い当たらない。だからといってマスタとずっと仲違いをしているわけにもいかない。このままでは死活問題となってしまう。
 それにしてもきっかけは思い返しても馬鹿馬鹿しいくらいに瑣末なことだった。
 例えば、私が家に帰った時に仕事の案件で頭がいっぱいだったために「ただいま」のあいさつをしなかったとか(マスター曰く挨拶は同居人への礼儀だという。その考えに異論はないからこれは私の失態だ)、これまた仕事が終わらないせいで数日マスターを放置し挙 句に「構え」とまとわりつく彼にうっかり「うっとおしい」と暴言を吐いてしまったり(これも私の失態だ)、それにひどく傷ついたらしいマスターが無断外泊をして今度はこちらがひどく腹を立てたり・・・。
 小さい衝突でも繰り返せばお互いに気分が悪くなるもので、いつになく二人とも大人げなく意固地になってしまった。

 同居をしていればちょっとした仲違いのひとつやふたつ起こっても仕方のないことだが、お互いにむっつりと黙りこんで過ごすのは楽 しい事ではない。今回は私の落ち度が幾分あったことだし、こういつまでもお互いを牽制するというのはいかにも大人げない。
 なんとかマスターと和解して日常に戻ろうと、閉じこもっていた自室のドアを開けた。



 リビングに入れば、そこには目的の彼がソファに前屈みに腰掛けなにかに夢中になっている。

   テーブルには深紅のエナメルの入ったちいさな瓶と、塗り終わったら飲むつもりなのかすっきりとしたラインのワインボトルとクリス タルのグラス。
 小さな刷毛付きのキャップを形のよい長い指に持ち眉をひそめて真剣な顔つきで自分の爪に神経を集中しているようだが、不器用な彼 のすること、爪だけではなく指にまで紅い色が散っている。
 こうした細かい作業は苦手なのだから、いつものようにミネアに頼むかネイルサロンに行けばいいものを、意固地になったように今夜は自分の爪と格闘中というわけだ。いや、もしかしたら部屋に入って来た喧嘩中の私とどう係わればいいのかをそうして探っているようにも見える。
 それにしても爪に色を塗るだけの行為に大人の男が背中を丸め、しかめた顔を開いた手に目一杯近づけ真剣に取り組む様は滑稽なような微笑ましいような、おかしな気分になって笑ってしまう。
 あぁ、またはみ出した。
 まったく仕方のない人だ。

「ほら、また指にまではみだして」
「チェリー?」

 マスターの危なげな手つきに見ていられず、彼に近づくとその手と持っていたキャップとを取り上げる。私に声をかけられるとは思っていなかったのかマスターは顔を上げて豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしている。

「チャーリーです。この調子でソファまで汚されてはたまりませんからね。私が塗って差し上げますよ」
「・・・・・・」

 マスターの手を取ったまま、作業がしやすいようにマスターの足元に座り、作業がしやすいように体勢を整える。それからキャップの 刷毛を瓶の中身に浸し、爪の一本一本に塗りつけていく。いつもなら絶えず軽口をたたくマスターは大人しく手を預けたまま一連の動作 を見つめている。
 それにしても。自分は機械のメンテナンスなどに手慣れているからこういった細かい作業は得意な方だが、まさかネイルカラーを施す はめになるとは数年前の自分なら想像もつかなかっただろう。今回のマスターとの喧嘩にしても、思えば自分の意思をさらけ出すように なったことが原因であると考えると、それだけ親密な間柄になったともいえる。彼を憎んだり距離を測りかねていた頃よりも進歩してい るのだろうか。
 たがいに無言のまますべての爪に色を塗り終え、除光液を使い指にはみ出た分を拭いとる。

「さぁ、終わりましたよ」

 感謝の言葉を口にしながらマスターが爪を乾かそうと両手をひらひら振ると10の爪が散る花弁のように舞い視界に残像を残す。つい その深紅に見惚れてしまいそうで口を開く。

「ボルドーとは、珍しいですね」

「爪の色が?それともこのワインが?」

 テーブルには深紅のエナメルのちいさな瓶と、空気を含ませるためにコルクを抜かれて芳醇な香りを漂わせているボルドー産ワインの ボトル。そしてクリスタルのグラスがふたつ。
 マスターがボトルを傾けると爪と同じ色のワインがグラスに注がれる。

「もちろん付き合ってくれるんだろう?」
「お付き合いしましょう。このワインがなくなるまで」


 あなたの爪とグラスの中の紅。頑なな私の意志を解すのはどちらなのでしょうね。







今回はいつにもまして散らかった文章で失礼しました(汗)。
この親子は喧嘩をしてもいつの間にか仲良しに戻っていればいい。そしてマスターは紅いネイルも似合うはず!
ワインは背景にいろんなネタを持っていますからお話にしやすいです。
産地がキリスト教の浸透した土地が多いために、宗教に関する名前のワインも結構ありますし。「キリストの涙」とか「聖母の乳」とか(~_~)。
本当はこの話に出てくるワインも銘柄を決めていたのですが甘くなり過ぎるようなので割愛してしまいました。


2010.12