決行前夜



 そこはイタリア南部の自然豊かな土地に佇む、瀟洒な屋敷だった。
 商人が通されたのはデコラティブな家具や美術品が並ぶ応接室。部屋の中には屋敷の主人と奥方、そして商人が対面して座り、もう一人の来訪者を待っていた。
 30代も後半に差しかかかったような主人は健康的に日焼けして、黒髪をゆったりと後ろに流している。その余裕ある佇まいは事業に成功した者のそれであった。これから体質に合うかどうかも分からない薬を身体に取り込もうとしているというのに動じる様子は見られない。隣に並ぶブロンドの顔立ちのはっきりした妻は、こちらは人並みの神経を持ち合わせているのか、さっきからそわそわと落ち着きがない。だが「永遠の命」と「永遠の美しさ」を約束されていたので、そこから逃げ出す気はないようだった。
 ちいさなノックがすると主人はゆったりと座ったまま甘い声で「お入り」と扉を叩く者の入室を促す。ドアを開けたのは中年のメイドに付き添われた、あどけない表情の少女だった。母親似の長いブロンドに深紅のリボンをつけた様がかわいらしい。10にも満たないだろう少女は人形を抱きかかえたままとことことやってきて両親の間にちょこんと座る。
「お父様、この子ね、とても汚れてしまって、ほら、こことか傷ができてしまってるの。新しいのを買ってほしいわ」
「いいとも。この後の注射をお利口に我慢できたら新しい人形を買ってあげるよ。その人形は捨ててしまったらいい」
「私、今度はロッサ(赤毛の子)がいいわ!」
「好きな子を買うといいよ」
 今まで抱きかかえていた、黒髪のエキゾチックな顔立ちをした人形をぽすんとソファに投げだすと少女は父親に甘えるように抱きつく。
 一連の、親子の様子を商人は何の感慨も持たずに見つめていた。
 今回の客は目の前の三人だった。少女は、これから投与される薬のことは聞かされてはいないようだった。彼女はこの幼い姿のまま永遠の命を得ることになる。たとえ長い生の途中で「大人の女」になりたいと願っても、100年でも200年でもこの姿のまま。血に飢え、陽の光に怯えて暮らせば、この土地特有の強い陽に焼けた今ははつらつとした肌は、すぐに青白いものに変わるだろう。その姿が嫌になった時は陽の光を浴びて消滅するほかないのだ。
 商人は自分の創造主であるアルフォードの姿を思い出す。彼も子供の姿のままずっと変わることがない。彼がこのちいさな客のことを知れば、そのかわいらしい口元をつり上げて皮肉な微笑をするだろうと思った。だが商人は、親のエゴで選択肢もないまま人生が決められてしまう不幸な少女に同情も憐憫も感じはしなかった。
 もとより感情など持ち合わせてはいなかったので。
 彼の仕事はただ薬の販売のみ。商人は慣れた手つきで、何の戸惑いもなく屋敷の主人、妻、子供の順に薬を投与した。幸い誰にも副作用は起こらず、試しにナイフで彼らにつけた傷は目に見える速さで回復した。
 不死の体へと変貌を遂げた客人達に商人は一言だけ言葉を発した。

「楽園へようこそ」

 家族は立ち上がり手を取り合ってお互いの無事と新たな人生を喜んでいるようだった。
 用の済んだ商人は立ち上がり部屋の扉を開ける。最後に部屋を振り返ると、少女にとって不要になった人形だけがぽつんとソファに取り残されていた。おそらくは、処分されてすぐに忘れられてしまうだろう不用品。それだけが、何故が目に焼き付いた。
 




 ぽたり、ぽたりと雨が落ちてくる。
   暗く、目を凝らさなくては周りも碌に見えない鉄格子の中は、強い薬品と、血肉の焼ける匂いが充満していて拷問に慣れたマフィア達でさえ顔を顰めていた。
 今は、壁に繋がれた手錠で手足の自由を奪われた、辛うじて人の形を残している男だけがそこに居る。
 ぽたり、落ちる硫酸の雨が再生しかけた肉を、骨を焼く。永遠に終わることのない拷問は、最初こそ身を捩って叫びだしたくなるほどの苦痛をもたらしたが、今では身動きひとつ、一息の呼吸でさえする気にならなかった。動けば動くだけ苦痛が増した。ただ終わることのない身を抉る痛みに意識を失い、それ以上の痛みに目覚める、その繰り返し。これだけはなぜか止める事の出来ない涙でさえ、伝った場所を削り取るように痛みを残していく。その涙でさえいつかは枯れてしまうだろう。
 この閉鎖された場所へは、きっと誰もやって来ない。永遠に。自分は逃れることも死ぬこともできずに苦しみ続けるしかなかった。そこには、自ら命を絶つという選択もなかった。
 最初から、自発的に行動するという選択は商人には存在しなかった。
 それは生まれながらのものなのか、意図的にアルフォードに仕込まれたことなのかは既に忘れてしまった。ただ、商人は自分から行動を起こすことはできなかった。与えられた仕事をこなすだけ。与えられたすべてのものをただ、受け入れるだけ。
 それが苦痛であっても。
 それしかできなかった。知らなかった。
 そしてひとつだけ願っていた。「解放」を。「安息」を。それをもたらすのはアルフォードのみであると思えた。もしくはまだ見ぬ「アダム」か―――。

 やがて閉ざされた空間へ、誰かがやって来る気配に意識が浮上する。
「な、何でぇ、こりゃぁ・・・」
「気を付けろ!! これは硫酸だ!!」
 マフィア達だろうか。男が、二人。顰めた声が近づいてくる。
 何か事態に展開があったのだろうか、新しい拷問のためにここから連れ出されるのだろうか。あのマフィアのドンは自分に死を与えるだろうか。アルフォードの前に連れ帰られて処分される可能性もある。どちらにしても自分はあの置き去りにされた少女の人形と同じ。自分は誰にとっても取り換えのきく不用品だった。創造された時から不用品だったのかもしれない。不用品であれば早く解放してほしい。

 その青年は浅黒い顔に毛先を染めた金髪をしていた。どういうわけか繋がれた手錠を軽々と引きちぎり(よく見ると腕の部分は刃物を仕込んだ機械でできているようだった)、爛れた身体を酸の強い雨から庇うように、やさしく布を掛けてくれた。
 未だ苦痛で朦朧とした意識の中、何かを問われたが自分に答える術はない。たとえ不用品で、これから処分を待つだけの身であったとしても情報を口にすることはできなかった。
 ただ、渡された腕時計に身体が震えた。アルフォードから与えられる腕時計は「解放」を意味する。だとすればこの青年はアルフォードからの使いだろうか?
「…済まない。」
 青年がもらした謝罪は、与えた死に対してだろうか。その必要はないというのに。
 その時、死を覚悟した時。腕をぐいと引っ張られ、気がついた時には青年に半ば背負われるようにして立っていた。引かれたせいで、ぼろぼろに焼け爛れた身体が引き攣れて、その痛みに意識が遠のきそうになったが青年の確固とした言葉に我に返る。
「傷に響くだろうが耐えてくれ!」

 閉ざされた、硫酸の雨の降る苦痛の空間から救い出してくれた青年が「チェリー」と呼ばれているのを知ったのは、それから少し後のことだった。





―――決行前夜


「すべては予定通りに運んでおります。クリストファー様」
 「クリストファー」を名乗るように指示されているチャーリーの執務室で、一定の距離を保ちながらレイモンドは手順を確認する。
 デスクに肘をつき、先程から何か物思いに沈んでいる様子のチャーリーが何を考えているのかは分からない。きっと明日の決行が成功するのかを憂いているのだろう。レイモンドの立っている部屋の扉の前から、彼までの距離は数メートルほどあった。密談をするには少し離れすぎているように思えたが、これ以上近づいてはいけないとチャーリーの指示であった。
 吸血鬼にとって死活問題である「食事」を、随分摂っていないと聞いた。
 彼がアダムのみの血を喰らい、他は決して口にしないとチャーリーから聞いた時は、何故かすんなりと納得してしまったものだ。彼らの絆になんとなく気付いていたからかもしれない。固く複雑に絡んだアダムとチャーリーを結ぶ繋がりは、他人が簡単に解いたりはできない代物に違いない。
 離れ離れになった彼らを、この要塞ともいえるウェイン邸から脱出させるのが、今レイモンドがここに居る理由だった。無情な父を裏切る理由だった。それが、明日決行されるというのに、レイモンドは落ち着かない気持ちになる。
 長い断食でやつれたチャーリーを見る。
 そっと近付いて、かっちりとした背中に手を当てて宥めることが出来たらいいのに、限界を超え飢血の衝動に常に囚われている彼の近くには寄ることができない。
 決行は明日―――。
 明日になれば、チャーリーととアダムはここを脱出し、レイモンドがもう二度と会うことはないだろう。アダムの遺伝子から製造された自分は元々消滅する身。あのディルーポで自分はこの意味のない生を終えるはずだった。すべてをチャーリーに捧げたこの身に、明日、何が起ころうとも今更怖気づくはずもなかった。
 けれども、どうしても後ろ髪を引かれてしまう。
「レイモンド」
 不意に呼ばれた声に、首を傾げて「なんでしょう」と答える。
 生まれて初めて与えられた名前は、彼が呼ぶだけできらきらと輝いているようだと思った。この名前は、とても大切なものだ。彼の声で名を呼ばれ、その振動が鼓膜を震わす。綺麗な音声が体中を巡って自分の体が浄化されるとさえ思ってしまう。名前を呼ばれただけで赤面してしまうなんて、おかしなことかもしれないけれど。チャーリーの一挙手一投足に自分は反応してしまう。
「君の、身が心配だ……」
 掠れた声で、自分を案じてくれる、それだけで救われた気持ちになるというのに、チャーリーはひどく申し訳なさそうに言葉を繋ぐ。
「君は…今まで私に尽くしてくれた、『友人』だ。そんな君に明日何が起こるのか」
「クリストファー様」
 近くに寄ることを請えば、意外とすんなり許可をしたチャーリーにそっと歩み足元に跪く。名を与えられたあの時のように。
 チャーリーは、好意を向けられればそれを振り払うことなど考えず、己の懐に招き入れてしまう人間なのだ。薬の売人であった自分にさえ優しく接してくれる。その優しさゆえにアルフォード様に弱みに付け込まれてこのような現状に追い込まれてしまっているのだけれど。
「私は貴方のお役に立てればそれでいいのです。ですが…最後に、……お願いがあります」
 決心をして、否と返される覚悟を決めて、口を開く。声が震えてしまうのはどうしようもないことだった。
「願わくば、貴方の手に再び接吻をすることをお許しください。もう一度、貴方に触れることを」
 チャーリーが逡巡する気配がする。
 自分も血を飲んで生きている身だからよく分かる。飢えている時は普段以上に血の匂いに敏感になるものだ。こうして足元に跪いているだけで自分からは血の匂いが薄いベールのように立ち昇り、チャーリーの鼻腔を刺激しているはずだった。ましてや肌に触れるなど、鉄壁の理性を持ってしても衝動を抑えきるのは至難の業であるだろう。きっと彼にとってこれは拷問に近い苦痛であるに違いなかった。
 それでも、最後に触れたいと、願わずにはいられなかった。
 まっすぐに見上げれば、チャーリーは痛みを堪えるような表情をしているので決心が鈍る。やはり謝罪をしてすぐにこの場から立ち去るべきか、という考えが脳裏をよぎると同時に、目の前に手が差し出される。
 自分から言いだしたことだというのに、目を丸く見開いて、ぽかりと口を開けた様子はさぞかし滑稽なことだろう。それでも差し出された手を、壊れやすい宝物にするように、そっと手に取り口をつけた。
 その時、ガタン! と椅子が倒れる音がしたのでびくりと身を竦ませてしまった。
 身動きが取れないのは抱き締められていたからで、レイモンドには何が起こったのか一瞬理解ができなかった。次いで嗅覚を刺激するムスクとシトラスの混じった香り。イメージモデルになった香水を纏うのは仕事のひとつで、その爽やかでありながら性的な香りはイメージモデルの彼にはぴったりだと現実逃避しながら考えても、頭に血が上るのを止めることはできなかった。

 ぎゅう、と身体を抱き締められて、うっ、と吸いこんだまま息が止まりそうになる。
 人の体温を肌で感じるのは初めてのことだった。
 じわりと視界が歪んだのは嬉しかったから。ほんの僅かでも動かれたら、眸から雫が零れ落ちてしまう。どきどきと心臓が、痛いほど律動して存在を主張するから、自分はまだ死んでいないのだと理解できた。心臓が口から飛び出すとはこういうことかと頭の隅で思ったり。
 呼吸は相変わらずひどく困難で、陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクさせる自分はきっと酷い顔をしている。頭部すべてが火照って熱くて湯気でも発しているんじゃないかと心配になる程だった。
 「クリストファー様…」と声を掛けたかったが、とてもじゃないが声なんて発することができなかった。空気の塊が喉に詰まって苦しい。でも解放されたいとは微塵も思わなかった。
 彼は抱き締めてくれたままじっと身動ぎもしない。ただ、……ただ、吐息が首元を掠めたから、あぁ、と納得した。
 あぁ、自分はこれを待ち望んでいたのかもしれない。このまま血を吸い取ってくれたら。
 もし、彼に血を捧げることができたなら。消滅したとしても、自分が存在した証になる。自分の存在した理由となる。
 そおっと両手を彼の手にまわしてシャツを掴んで、どうか捧げさせてくださいと願った。
 再び衝撃があったのはいきなりのことで、またもや頭がフリーズして我に返った時には肩を痛い程に掴まれて引き剥がされていた。
「く…、はっ」
 噎せるような、苦しそうな声と同時に廊下に押し出されたと思ったら目の前で扉が閉まった。廊下の空気は室内よりもひんやりとして、扉の前に立ち尽くす。扉の向こうの室内では、たぶん扉に凭れ掛かっているだろうチャーリーの忙しない息遣いが聞こえる。
「っ、すまない。君には…何も、してやれない」
「……いえ」
 冷や水を浴びるほどに血の気が引いた。自分はなんと思い上がってしまっていたのか。
 たとえ自分がどんな目に会おうともアダムとチャーリーを脱出させることができれば、それでよかったはずなのに。予想外の展開でチャーリーの傍に置いてもらえて、あまつさえ名前まで与えられた。それに飽き足らず彼に触れたい触れられたいなど願うなど、なんて厚かましい。与えられることを知らなければ、欲するという感情も知らずに済んだのに。チャーリーの優しさに、寛大さに、付け上がってしまった。
 あれほどチャーリーはアダム以外の血を口にしないと分かっていたつもりなのに、たとえそんなつもりがなくとも自分がしたことは悪魔の誘惑にも匹敵する愚行だった。今すぐに消滅してしまいたい衝動に駆られる。
 けれども、今、消滅するわけにはいかない。すべては明日。
 自分は過ぎるほどに与えられた、名前に、この感情。人の温もり。これだけあればこの先何が起ころうとも耐えていける。

「私は大丈夫です。―――今暫くのご辛抱を」
 そして幸運を。
 踵を返して扉を後にする。さっきまで抱き締められて温もりを感じていた腕に手を当てる。じんわりと熱が広がり、それでも身体の震えは止まらなかったけれど、そこに負の感情はなかった。

 決行は、明日。










 チェリーにハグをしてもらうレイモンドが書きたかっただけなのに、やたら長くなってしまったような。しかも暗いし!
 「死とは解放だ」って思ってずっと解放を願ってて、でも自発的に行動できなかった商人が今ではかわいいレイモンド、っていう流れがすごく好きなんです。
 商人に関しては描写も少ないし、多々捏造してしまいました。突っ込みどころもあるかと思いますが(そもそも決行の準備は前々日には始めてるんですよね…)、スルーしていただけるとありがたいです。
 それからチェリーの描写が美化されまくってますけど、それはレイモンド視点なので問題ないですね(笑)。これがレイモンドの通常運転。
 この先レイモンドもどうなるか分からないし、続きが出る前に何かを書きたかったのです。
 レイモンドが消滅する前提で書いてますけど、それすらどうなるか分からないし、そもそも「決行」が具体的にどういった事なのかも現時点では不明ですものね。願わくばアクションが見たい。黒乃先生のアクションは秀逸なので。

 そしてレイモンド→→→→チェリーの話を読みたい人がいるのかも謎(笑)。でもいいんです。もうちょっと書き込みたかった気もしますが、そこそこに満足しましたので!
 こういうのを私得っていうんだな…。


2011.6