the calm days



 ベッドへとくずおれた彼は全身を血に染めていた。
 腕の中から冷たくなった身体が落ちてゆく。最後に自分に取り縋ろうと、血に染まった左手が触れた右肩に四本の指の跡を流線に描く。
 あかく、あかく。
 ちり、頬が焼けるように熱い。彼の返り血を浴びた場所が焼けていく。煙をあげて皮膚を焦していく。べたつく口のまわりもひりついて、今まで甘美だと思っていたものが自分を拒否しているのだと肌をもって思い知った。もう彼の血は自分に馴染まないのか。
 自分は何ということをしてしまったのだろう。
 閉じることを忘れた口が、獣のような咆哮を洩らす。
 瞳から涙が、あふれて、あふれて、まるで頬や口元に貼りついた赤を洗おうととめどなく流れるけれども、とても彼の血に敵うはずもない。涙と血は混じって更に顔を汚していくが、そんなことには構ってはいられない。
 両手で自らの頭を抱えて、あぁ、なんてことをしてしまったのだろうと髪を毟らんばかりに強く引いて、それでも痛覚は麻痺して痛みを感じることすらない。
 これは自分の理性を過信していた罰だ。
 たとえどんな状況に置かれようとも、いくら限界を超えようとも、彼を喰い尽すことなどあり得ないと信じていたのに。
 過信して、怠慢の結果がこれだ。
 力なく瞳を閉じて、まるで眠るようにベッドに横たわる彼は、ところどころを血に濡れて、けれども透き通るほどに白くて生命に必要な量の血液を身体に収めてはいない。奪い取ってしまったのは自分だ。
 それでもこの状況を現実だとは信じたくなくて、彼に呼び掛ける。何度も、何度も。
「マスター、・・・ねぇ、マスター。返事をして・・・・・・」
 あまりに流れすぎる自分の涙に咳きこんで、それでも彼を呼んで。マスター、早く応えてくださらなければ、私は自らの涙に溺れてしまいます。 だからお願い、返事をしてください。

「マスター・・・・・・」

 目を開けば、そこは薄明るい部屋だった。
 カーテンなど上等なものはついていない窓から、弱々しい光が部屋をうすく照らす。けれども世界はまるでマーブル模様のように滲んでいて、どうしたことかと目をこすったところで、自分が泣いていたことに初めて気がついた。ぐっしょりと濡れた手の甲に唖然とした。
 とても嫌な夢を見ていた気がする。
 けれど、それがどんな夢かは忘れてしまった。これほどまでに涙を流すなど、自分はどうしてしまったのだろうと精神状態が不安になるくらいに泣いていたというのか。たかだか夢くらいでこの様とは、自分はまだまだ修行が足りない。
 ふぅ、と気を落ち着かせるためにひとつ息をついて、涙に濡れた顔をごしごしと乱暴にこする。大の男が起きぬけに目の周りを赤くしていたら笑われてしまう。
 いや、待て。もう外が明るくなりかけているとしたら、今は何時なのだろう。自分は寝過ごしてしまったのだろうか。
「やっと目が覚めたようだね。クリストファー」
 気配のなかった部屋の隅、といってもとても狭くてベッドとちいさな書き物机を置いたら一杯になってしまうほどの広さの部屋の隅から声がして、クリスはびくりと身を強張らせた。が、窓から入る早朝の光を避けるように、暗い場所へと潜むように机に添えられた椅子に座る彼は穏やかな雰囲気でクリスをリラックスさせる。艶やかな癖のある黒髪を後ろで結んで、きっちりとした身なりの彼はクリスがもっとも尊敬する人物だ。
「なぜ、ここに・・・、マスター?」
「皆が心配していたよ。朝のお勤めに君が来ないだなんて、どこか調子が悪いのじゃないかとね。だから私が様子を見に来たのだが」
「すみません」
「顔色も悪いようだ。もう少し寝ていたらいい」
「・・・いえ」
 慈愛に満ちた顔で覗きこまれて、頬が熱くなる。悪夢を見て涙を流しているところを見られてしまうだなんて、ひどく恥かしい。寝乱れた髪を直すふりをして彼から顔を隠すと、くすりと笑う気配がした。そして、体温を計測するように額に手を当てられる。
 彼は極度に肌が弱いらしく、滅多に人に素肌を見せない。いつも襟の高い服をきっちりと着込み、手袋を外すことすら稀だ。特に日に弱いらしく、昼間に外出する際には尼僧のようなヴェールを被ることさえあった。そんな彼の、見慣れない素手が額に触れて、それから未だ濡れた目尻を拭う。修道院での質素な生活にも関わらずその手は滑らかで瑞々しい。クリスはまた頬を赤らめる。
「あの、すみません・・・」
「なにを謝る?」
「なんだか、あなたの手が私に触れるのは・・・なんというか、もったいないような気がして」
 一瞬、彼が目を丸めて、その後で細めた。くすりと微笑して、目尻にわずかに寄った皺さえ彼の魅力を損ないはしない。
「何故そんな風に思うのだろう?」
「それは・・・」
 それは、彼の素肌が誰かに触れるのを見たことがないから。彼の感触を得ることはとても貴重なことのように思えるからだ。まるで手を当てただけで病を治したという、遠い昔の彼の人のようにあなたが尊いから。
「・・・クリストファー、見誤ってはいけない。惑わされてはいけない。私は・・・君が思っているような高潔な人間ではない」
 どこか身の内に痛みを抱えた表情で告げるが、クリスにはそれは高みを目指した人間の言葉にしか聞こえない。
「いえ、あなたほど孤高で尊い存在を私は知りません」
「そんなことを言ってはいけない」
 また、彼の素手がクリスに触れた。言葉をとめるように、その唇に。
「私には、まっすぐで白い君の方が眩しいくらいだ」
 本当に、眩しいものを見るように目を細める彼にクリスは居たたまれなくなる。俗っぽくて、黒い世界への憧憬を捨てられずにいる自分は、とてもきれいな存在とは言えないだろう。
 共に身の内を顧みて視線を落とし無言になる。ふたりの間に沈黙が落ちた。
 やがて、彼はいつもの手袋を嵌めると席を立った。
「さて、私は戻るよ。君はもう少し休んでいるといい」
 はっと我に返ったクリスが彼の手を掴んだ。
「あの、」
 彼に、伝えなくてはと思った。クリスの胸の底に、常にたゆたう感情。それはとても個人的なもので伝えることが適切であるかさえ分からなかったが、今を逃したら永遠に彼には伝えられないような気がした。
「あなたが、たとえ誰であってもお慕いしております。あなたと共に居られる今がとても幸せであると、日々を感謝しているのです」
 クリスの告白を聞いて、彼はまた痛みを隠すような表情をする。言ってはいけなかっただろうか、敬愛する気持ちを彼に伝えることは間違っていたのだろうか。でも、どうしても伝えたかったのだ。後ろめたさを持たないクリスは、その気持ちと同じくまっすぐに彼を見つめる。
 一瞬の後で彼は気を取り直したように敬虔で厳かな神父の表情をつくり、クリスの頭に手を置く。祈祷をするかのように厳粛でありながら慈愛に満ちたそのしぐさ。
「ならば、私は君の日々に平穏と幸福が続くと祈ろう。」
 低く響く彼の声に、クリスは信仰に魅了されたかのように目を閉じた。
 これからも、ずっとずっと清廉な彼と共に居ることができるのだと平穏に胸を満たして。






【後記】


 6巻の表紙公開記念!
 通常版のチェリーがあまりに痛々しいので、思わず書いてしまったのですが・・・。うぅぅ。非常につまらないものになってしまいました(>_<)。
 時間軸があっちこっちしてますが、夢がヴァンパイアになってから(6巻通常版表紙)。目覚めた後が、チェリーがまだ人間でいる時期、になっております。
 この時期って、チェリーはマスターが吸血鬼と知らないんだけど、聖職者としてすごく尊敬して全幅の信頼を寄せていたんじゃないかなという妄想。マスターはマスターでチェリーの無垢なまっすぐさに憧れていたんじゃないかと。きっと人生の中で幸せな日々のひとつだったんじゃないかなぁ。もっとでろんでろんに(笑)甘いお話を書きたかったんだけど、いいんです後でまたがっつり書くから!
 例の「雨の日」のちょっと前のつもりだったんですが、マスターは神父(「仮にも神父だったのだから簡単でしょう?」てチェリーも言ってたし)、チェリーはあれほど憧れていたんだから聖職者ではないんだよね?
 今回、修道士のイメージで書いたんだけど私は宗教にとんと疎いので何かとおかしなところがあるかもしれません。
 そういえば「雨の日」前の青年チェリーの描写はほとんどないんですよね。騎士や神父姿のマスターは少しだけ描写があったけど。青年チェリーのエピソードプリーズ!


2012.3