N VALLEY 2



 市内に入るとレイフロのナビゲーションで道を進めることとなった。
 まだ夜明け前の、だが日の出が遠くないこの時間帯は空気が澄んでいる。薄くなりつつある闇色が辺りを青く染めているが、それもあと少しで日の光に霧散されてしまうだろう。
 想像したとおり、走る車の両脇には傾斜した土地に一面ブドウ畑が広がっており、その青々とした葉が朝露に濡れているのが見て取れた。数人の早起きの作業者たちが既に畑で仕事をしているのも見える。農業に携わる人々の勤労にチャーリーは頭が下がる思いがした。

 やがて目的地に着くと、そこはワイナリーに併設されたレストラン兼宿泊施設になっているようだった。名産のワインのテイスティングがここでの人気アクティビティであり、市内にはそういったサービスを提供するレストランやホテルなどが何軒もある。
 ここは規模からするとオーベルジュといったところか。それほど大きくない建物は大自然に囲まれた田舎らしさを演出して木目を全面にあらわにしたログハウス風。宿泊施設の建物と渡り廊下で繋がれた八角形はレストランらしい。フロアは壁一面が大きなガラス張りとなっていて日が昇れば明るい光で満たされるだろうが、今は人気もなくひっそりとしている。
 レイフロが連れて来たのだから宿泊の部屋を取ってあるのだろうと建物の入口へ向かえば「チェリー、そっちじゃないぞ?」と手を引かれる。
 そのまま建物の裏手へ連れて行かれて疑問に思っていると、ちいさな木製のドアがあった。シンプルで素っ気ないデザインのドアは客を招き入れるものではなく作業者の使うものに見える。とすればこのドアの先はワインの製造所かなにかか。レイフロは「ちょっと待て」と言い置いて自分のポケットを探る。そしてドアに見合うちいさな鍵を取り出すとなんの迷いもなく鍵穴に差し込んだ。
 果たして、ドアの先には壁も天井も足元も、四方が石造りの階段があった。下にのみ延びている階段は螺旋状で大人であればすれ違うのも困難だろうと思えるほどの狭さだ。
「マスター、これは―――? なぜここの鍵を」
「それは俺がここの経営者だからな」
 手を繋いだまま、暗い階段を危なげなく、先頭に立って降りながらレイフロはあっさりと答えて、驚いた?と悪戯っ子の表情で笑う。
「このような仕事をお持ちとは知りませんでした」
「んー、まあ管理は人に任せてあるし、共同経営者もいるしなぁ」
「共同―――?」
 チャーリーの胸にちくりと何かが刺さったような、ちいさな痛みが走った。いったいどんな人物とビジネスを共にしているのか、言い掛けたところで階段は終わり、ふたりは広い空間へと出た。
「ここは見れば分かると思うが貯蔵庫だ」
 レイフロに促されて辺りを見回せば、薄暗いオレンジ色の灯りのついた空間はどのくらいの広さだろう。中身はワインと思われる、カラであれば大の男が身をすっぽりと隠せるくらいの樽がかなり先の方までずらりと規則正しい間隔で並んでいる。温湿度を調整しているのか機械のうなるような音が小さく聞こえるが、それとは別にスピーカーが設置されているようで、クラシック音楽も流れている。そういえばなにかの雑誌でワインに音楽を聴かせると風味が上がるのだと読んだ覚えがある。たかが酒といえども繊細なのだろうか。なんとなく大きな声を出してはいけない気がして息をひそめると、レイフロが笑って「そんなに気を使う事ないぞ。レディを扱うのと同じ程度の優しさで充分だ」などと難しいことを言う。
 それにしても、地面の中薄暗がりに並ぶ樽はまるで地下墓地を連想させるとチャーリーは思った。陽の光の届かない地上とは別の世界。だが死人と違ってこのワイン達は再び世に出て人々の喉を潤す。
「くく、この地下の雰囲気、落ち着くなぁ。そう思わないか?」
「私は別に。まさかここに寝泊まりしようだなんて言いいませんよね?」
「そうか、チェリーはお気に召さなかったか。残念だなぁ、せっかくもてなしてやろうと思ってたのに」
 ちっとも残念そうではなく言いながら、レイフロは壁に設えられた棚からグラスをふたつと大きめのスポイトのようなものを手に取る。そのまま付近の樽を物色するとそのうちのひとつにスポイトを刺し込み中身を吸い上げた。ルビーのような色合いの液体をグラスに注ぐとひとつを差し出した。チャーリーが受け取ると、自分のグラスにもワインを注ぎ、傾けてカチンと縁を合わせる。
「とりあえず運転お疲れ、サルート」
 特に喉は乾いてはいなかったが、勧められた酒を断る理由もないのでチャーリーはグラスに口を付けた。こくりと含めば、フルーツのフレッシュな香りが口の中に広がって、次いで身体に沁みわたる。長時間運転をして凝り固まった身体が解れていくような感覚。たしかにこれは疲れに効くかもしれない。
「美味いだろぉ」
「えぇ、たしかに貯蔵されたものをそのまま飲むのは一味違いますね」
 他にもっと美味しいものを私は知っていますが。そうとは口に出さずこくりこくりとグラスを傾ければあっという間に中身は空になってしまった。レイフロはおかわりを勧めることもなく、さて、と手を打つ。
「チェリーの言うとおり、ここに寝泊まりするわけにはいかないからな。部屋へご案内するとしようか」

 貯蔵庫を、最初に降りた階段とは反対の方向に進めばつきあたりにまた階段があった。今度は上りの一方通行。上りきったところでドアを開ければ、そこは建物の中だった。おそらく先程外から見た宿泊施設の中だろう、外から見たよりも広く感じる。勝手知ったる様子でレイフロは建物内を進んでいく。
 何の迷いもなくレイフロは先へ進むから、先程から気になっていたことを聞きそびれている。ここを経営しているというもう一人の人物。ビジネスを共にするのであれば、それなりに信頼した人物なのだろう。古くからの知人なのだろうか。チャーリーは少ないながらも知っているレイフロの友人たちを思い浮かべてみる。どの人物も共同経営者とは紹介されていない。たぶん自分の知らない人間なのだろう。少しおもしろくないな、先を歩くレイフロの背を見ながらチャーリーは目を伏せた。






「………」
 レイフロに案内された部屋に足を踏み入れてチャーリーは言葉を失った。想像していた部屋と随分様子が違っていたからだ。
 今居るのはリビングだった。サクラメントのアパートメントのリビングの倍くらいは広さがあるだろうそこには、見るからにふかふかしていそうなソファーにどっしりとしたセンターテーブル、部屋の隅にはカウンター付きのミニバーが設えられている。その脇に置かれた簡易ワインセラー(といっても優に30本以上は収納できそうだ)には目一杯中身が詰まっていた。他にも据え置かれている調度品はどれも重厚で、それなりに高級なもののように見える。
 重く閉ざされたカーテンの外には広いバルコニーがあるらしく、出れば美味しい空気と一面のブドウ畑を堪能できるはず、とはレイフロの言葉。「残念ながら昼間の光景は見たことがないがな」。
 リビングのドアから繋がるのは寝室だ。部屋の真ん中には王様が寝るのかと思える程に大きな、これまたふかふかしていそうなベッドが鎮座していた。場所柄かベッドの四方にある支柱にはブドウの蔦や葉、果実のレリーフがあしらわれている。部屋のさらに奥にあるふたつの扉はバスルームとウォークインクローゼットか。半開きになった先に壁面一面の鏡が見える。
「落ち着いて眠れなそうだ…」
 ぽかりと開いた口から感想が洩れる。
 分相応という言葉がチャーリーの頭をよぎった。自分にはこの部屋は釣り合わない。普通の狭い、5歩も歩けば壁にぶち当たるような部屋が落ち着くんです。ホテルであれば、パブリックスペースである廊下との境になるドアがひとつだけど、一間の部屋の方がいいんです。ちなみに自分に飲食は必要ないのでミニバーはいりません。
 屋敷をいくつも所有しているのだ。部屋を用意してくれたマスターにはこれが標準装備なのだろう。思えば部屋の様子はレイフロの屋敷内にどこか似ている。けれど申し訳ないがこんなスイートは自分には必要ないと訴えようとしたところで、レイフロが踵を返したのでチャーリーはまた言葉を失ってしまった。
「ゆっくり休んでくれ。部屋の物は好きにしていいぞ」
「え…」
 まるで自分はこの部屋を使わないとでもいうような口振りにチャーリーはうろたえた。当然のようにレイフロもこの部屋を使うものだと思っていたからだ。
 たしかに自分は部屋を取るなら一人がいいと常から言っていたし、人のベッドに潜り込もうとするレイフロを追い出したりもする。だが遠出した時に同じ部屋を使うのは既に自分達にとって恒例となっていたのではなかったか。それにここに来るまでの車内であれほど自分を誘ったのは何だったのだ。てっきり部屋に着いてからも誘惑されるものと構えていたのに、肩すかしをくらった気分だ。あれはレイフロの気まぐれだったのか?
 心の葛藤をよそに、あっけなく部屋を出ていこうとするレイフロの手を咄嗟に掴む。
「あの、マスターは」
「俺は棺で寝る」
 いつもはしつこい程にチャーリーにまとわりつくレイフロがあっさりと切り返す。
 実はさっきの貯蔵庫の奥に俺のカンオケルームがあるんだ。やっぱり眠るのは棺じゃないと体力的にキツいしなー。あの狭い空間が落ち着くんだよ。ふぁぁと欠伸をひとつして、ちゅ、と唇にキスをする。親密な仲でなければあり得ない場所へのあいさつのキスであるのに、軽く触れるだけで離れていくレイフロにチャーリーは不安になった。
「もう日が昇る。パパはおやすみの時間だ。それとも俺のかわいいベイビーは添い寝が必要かな?」
「あの、」
 珍しく言い淀んでしまう自分が情けない。吸血鬼の習性としてベッドでは休まらないのだろう、棺で寝たいというのであればそれを邪魔することはできない、引きとめることはできない。身体に負担を掛けさせるわけにはいかないのだ。頭では分かってはいる。しかし体は温もりを求めていた。親を片時も放したくないだなんて本当に赤ん坊のようだけど。
 とくに何かをしたいというわけではない。ただ、離れ難かった。チャーリーはあと少しだけ引き留めたくて古い恋愛物語を引用した。
「『もう行ってしまうのですか? まだ夜は明けていません』。まだここに居てくださればいいのに。『あなたの耳に響いたのは、ナイチンゲールです。ひばりじゃありません。』」
 レイフロは片眉を上げると、引用元に気付いたのか、したり顔で続けた。
「『ひばりだった。朝を告げる鳥だ。』『行かなければ。とどまれば死ぬだけだ。』 これって一夜を明かした後のやり取りだったよな。随分色っぽい引用をする」
「朝を恐れているのはあなたじゃありませんか。『あの光は朝日じゃありません。』『だから、ここに居て。まだ行かないで。』まだ眠くはないでしょう?」
「『死んでもいい。、それで満足だ、君がそう願うなら。』眠いけど、お前に引き留められたら留まるしかないかな。少しだけだぞ」
「少しで、いいです」
 ほっと息をつくと、チャーリーはレイフロの腰でやんわりと手を組んで、腕の中に閉じ込める。
「なに、チェリー君は甘えたいお年頃か?」
 からかう口調にほんの少しむっとするが、くすくすと小さく笑う頬に頬を擦り寄せて肌の感触を確認する。そのまま髪に鼻を埋めて行きあたりにキスをする。ちゅ、ちゅ、と音をたてながら僅かに場所をずらして髪に、生え際にと数か所。唇を皮膚や髪に押し付けるだけでは音は立たないから、キスとは無音のものだと少し前まで思い込んでいた。けれどレイフロが自分にするように皮膚と唇の間で音を立てれば腕の中の体温はじわりじわりと温度を上げる。耳元ですればちいさく震える。うねる黒髪は近付くものをくすぐって、鼻先を掠められればくしゃみが出そうになるけれど、ここはマスターの匂いを強く感じられて安心する。体臭と煙草と香水の入り混じった匂い。腕は腰を抱えているから髪を梳くことはできず、手を使わずに鼻先でかき分けながらキスをして、すんすんと呼吸をするのはまるで犬みたいだ。さらに犬のようにと舌を出して滑らかな頬に滑らせると、レイフロの唇が後を追う。追い付いてお互いの唇が触れ合う瞬間にレイフロは「あ」と呟いて間に手を挟み込んだので、チャーリーの唇はふに、と手のひらに行く手を阻まれてしまった。
「このまま続けたら寝不足になってしまう。俺は眠いんだよぅ」
「寝てていただいても結構ですよ」
「なんだよ、随分自分を過小評価するんだな」
 チャーリーに触れられて呑気に寝こけていられるわけがない。こうして髪の間を啄ばまれて、頭皮に、耳の後ろに息を掛けられただけで心拍数が上がって眠気は飛んでいってしまいそうなのだ。それに加えて勉強熱心なチャーリーときたら、最近ではどうすればレイフロが悦ぶのかを習得してしまい、相当にレイフロを慌てさせている。セックスに関してまで一途に勉強熱心とか、本当に恐ろしい奴。きっと本人は自覚がないのだろうけど。だから「寝ててもいい」なんて気楽なことを言ったりするんだ。
  





【後記】

中途半端なところで続きにしてしまってすみません。
今続きを書いているので、1〜2週間内には仕上げてアップしたいです。
そして相変わらず文章があっちこっち(汗)。流麗な文章ってどう書けばいいんでしょう。

そして、今回はワインに興味がない方には面白くなかったかもしれないですね。完全に私の趣味です。
実際にナパバレーに行ったことがないので、日本の勝沼を思い浮かべて書いてみました。
勝沼は日本のワインの名産地ですね。とてもいい所です! ワインもおいしい!
それからワインを熟成させる貯蔵庫が吸血鬼の隠れ家になったりしたら面白いかとも思ってみたり。暗くて静かでぴったりだと思うんですよ☆

今回はいちゃいちゃが少なかったでしょうか。
次はそれなりにいちゃいちゃとなる予定です。色っぽいシーンは書くのが苦手なので、少々お時間をください。
今回はシェイクスピアの引用をしたかったので私的には満足でした。
引用は角川文庫の『新訳 ロミオとジュリエット』の他、図書館から借りた英語テキスト的な本などを参考にしました。ちょっと男性口調になるように弄っちゃったんだけどね。チェリーがジュリエット、マスターがロミオです。
ところで角川文庫のシェイクスピアシリーズは表紙が金子國義なんですね! 図書館で借りればいいやと思ってたのに、表紙のせいでお買い上げ〜♪してしまいました。くそぅ商売上手だな!


2011.11